らせん ... http://www.geocities.jp/hyakky/

もう会えないけれど、きっと、幸せになってゆく人。

彼女はきっと、きれいになってゆくだろう。今よりもきっと、ずっときれいになってしまうだろう。それはとても嬉しくて、それはずっと切なくて。僕は

ぼんやりと彼女を眺めて言った。

いっつもさ、両手で持って飲むねえ

彼女はいつも、ちいさな指先を大きく広げて、両手でグラスを支えていた。

「両手で持たないと飲み物がもれるんです」

口から?

「くちの横から」

ふうん

「変ですか?」

ううん。かわい

くるくるとまわるくりくりの目が恥ずかしそうに僕を見た。細い肩が更にすくめられ、僕はもう一度、かわいいと思う と、言った。

「多分もう、一生分のかわいいを言ってもらった気がします」

そんなことないよ。これから先、もっとかわいくなって、もっともっとかわいいって言われるよ。

僕はそう言って、付け加えた。

かわいいね

彼女は「もー」と言って、僕は何も言わなかった。 かわいいなって思いながら。

いくつかの記憶の中、彼女はいつも前を向いていて、僕はその顔を左側から見ている。少し長いめの前髪からぐりっとした目がぱちぱちと瞬きし、嬉しそうに口を開き、笑う。そして僕が話しかけると彼女は少しびっくりしたように目を見開いて、僕の方を見る。すこしうすめの、潤ったくちびるをゆるく開いて、「どうしました?」って、今にもそう言いそうな無邪気な顔で僕に振り返る。

彼女の周りにある世界は、こっち側から一本細い線が引かれていて、そこからあっち側は触れるのがもったいない無垢で、包装紙を破いたばかりのガラスケースみたいに曇りなく見えた。だけど、静かにそこにあるのはガラス越しのちいさな、よく作りこまれたお人形みたいな、なんだか寂しそうなしんとした空気で、それは彼女をいっそう儚く見せた。そして僕はその空気に触れていたかった。

僕は彼女の左手側にいて、彼女は僕の右手側にいた。右利きの僕と、左利きの彼女とはそうすることで強く、固く結びつくように思った。少なくとも、その頃の僕はそう感じていたし、少しも疑うことはなかった。僕は彼女の左手を握ったし、そして彼女はたまにその手を握り返してくれた。僕はそれが嬉しくて彼女の顔を覗き込んだ。するとまた彼女はいつものように大きな目をさらに見開いてこっちを見る。僕が笑い、彼女は言う「へんなの」

僕と彼女は僕の小さなアパートでも隣り合わせて座った。休みの日、二人並んで座って、昼間からビールを飲んだ。 これこれ 僕が言って。 「あらあら」 彼女が言った。 彼女の髪の毛はいつもあたたかな匂いがした。 それは女の人の香りとは違ったし、こどものにおいでもなかった。 「おひさまです。おひさま」 彼女はそう言って笑って、僕が 無臭 と言い、はたかれた。

僕らは隣りあわせで、ベッドを背もたれにして座った。足を投げ出して、真ん中には灰皿があって、そしておそろいのマルボロライトと淡いブルーのターボライターがあった。

彼女は何度か僕に料理を作ってくれた。 パスタが好きな僕の要望に応えようと一生懸命に食材を選び、そこにひとひねりの彼女らしさを織り交ぜて、僕が好きなにんにくがきいたパスタを作ってくれた。 彼女の手は、そんな時いつもにんにくの匂いがして、指にくんくんと鼻を近づけ「今日もにんにくの匂いだわ」って言った。 僕は彼女の髪の毛の匂いも、にんにくの匂いがする少ししめった手も大好きだった。

大きな皿にパスタを盛り、テーブルの上においてくれる。僕が先に一口ほおばり、彼女はエプロンで手を拭きながら「どーですかー」と言う。

僕は彼女のそばまで行って、そして耳元で、やや元気よく言う。

うーめー!

「やったー!」

両の手でピース、ピースの指をぐにぐにと曲げながら僕らは笑いあった。そしてまた隣り合わせて座ってフォークを握り、にこにこしてお皿へとフォークを伸ばす。

みぎてひだりて隣同士に座っていたから、僕の右手と彼女の左手はぶつかる。そんなことがよくあった。

「あっ逆にすわったほうがよかったですね。手が」彼女はそう言った。

いい

僕らはお互い利き手で手を握ることができる

「それならお互い利き手じゃないほうですわったほうがいいわ。そうしたら手をつないだままごはんを食べたり、煙草を吸ったり。自由にできるもの?」

もうしばらく

「うん?」

しばらくの間は、そうしてみたい

「へんなの」

いつものびっくりしたみたいな顔で、少し笑って彼女は言った。

うん

恋を忘れてしまった。そう思い込んでいた僕がやっとみつけた大切で、この手にしていたかったこと。恋に傷つけられていた彼女が大切にする自由にしたかった何かのこと。僕にはわかってなかったのかもしれない。 彼女は”絶対”を嫌った。 彼女は”絶対”を信じなかった。 「信じて、裏切られたことがあります」 そんなことを確か言っていた。 僕は ふうん と言った。 ことばに傷つけられた彼女に対して、僕は言葉で向き合うことができなかった。だから、同じことだったのかもしれない。”絶対”も”しばらく”も。彼女にとって。僕たちにとって。

彼女がくれたいくつもの記憶。

幼い歌声。 聞いたはずのない懐かしい歌。 無邪気に笑って、僕の名前を呼んでくれた声。

駅で座っている僕を見つけて、にーっこリ笑って、走ってきて、僕の名前を呼んでくれた。少しかがんで、両手をひざに当てて顔を横に倒すようにして僕を覗き込んだ彼女に つかれちゃったよ そう言うと、ひざをかかえるように腰を落として僕と同じ高さの目線になってくれた。「よーし」って、僕の手をとってくれた。逆に僕がよしよしと頭をなでると「こどもあつかいしないで!」ってすねた。でも頭をなでているあいだは大人しく嬉しそうにしていて、自分でそれに はっと気づき、「ずるい!」と言って逃げた。

手をつないで歩いた夜の商店街。路面電車を待つまでのとりとめのない会話。

わざと遠回りした帰り道。僕と彼女を隔てた踏み切り。電車からひらひらと振るてのひら。とか。

夜、少しだけ見せてくれた白い肌。

僕の腕の中で、目を潤ませて、一度だけ言ってくれた

「キスして」

どう思い返しても、どんな場面を思い返してみても、彼女は笑っていて。 洗面器から溢れてしまう温かな、冬の日の張り湯のような、こぼれてしまいそうな笑顔しか浮かばないのだ。

僕らはいつも隣り合わせだった。しっかりと手をつなぎ、僕は自分の手に汗を感じ、そして彼女の手にもそれを感じた。  僕たちは同じ景色を見ていた。しっかりと、離さないように握った彼女の手の体温を頼りに僕は歩いた。

僕はあんまり強く彼女の手を握っていたから。一緒に見ていた同じはずの景色に、僕ら自身は映らなかったのだ。僕は鏡に映った自分と彼女を、僕自身と彼女自身だと思っていたのかもしれない。鏡の中の僕は少しいびつな冷静さで彼女を守ろうとしていたのかもしれない。

腕の中に抱きしめたときでさえ、僕は手を離すことはなかった。僕の胸の中でこぼした彼女の涙に気づかないまま、つないだ手のひらと、手のひらとをとても幸せに、抱いたちいさな両の肩をひどく愛おしく感じた。とても悲しいことだけど、身体を重ねることは彼女にとって共有ではなく、手首をつかまれるのと同じ束縛だった。身体に触れる腕は彼女の内にある意識にとってはぬくもりよりも冷たく、その意識の外にある身体にとっては、熱を帯びた他人の自分勝手な欲望そのものだった。だったのかもしれないし、まったく違ったのかもしれない。

あの夜も、強く抱きしめていたあの夜でさえも、彼女は独りで眠っていたにすぎなかった。自分を守りながら独り、そうしていたのかもしれない。 そして彼女は疲れてしまっていて。 いろいろなことに、酷く。 たくさんのことに、深く。 一番近くにいたはずの僕は、彼女のことを守れなかった。気づいてあげることさえできなかった。 僕はただ彼女のことを欲し、欲しがるばかりだった。

「もう、会えません」

送っていった梅ヶ丘の駅で、僕が聞いたその声はいつもと同じ少し鼻にかかった幼い声で、いつものちいさなえくぼを見せた、それでもきっとそれは精一杯の笑顔で、大きな瞳には涙をいっぱいにためていて、そこにははじめて僕が、自分のことばかり考えている僕が映っていた。

花は確かに咲いたと思った。しかしそれは夏を待たずに散ってしまった。 その花の淡い花芯は、静かにひっそりと涙を流し、そして、目の前から消えてなくなってしまった。 最後に見た笑顔が、悲しいはずの散り際の花が、一番きれいだった。

そう、だから。

もうきっと会えないけれど、きっと、幸せになっていく彼女。 幼くて可愛いかった彼女が、きれいになっていくのが切なくてせつなくて、だから。

きれいになってゆく彼女のことを、幸せになってゆく彼女のことを、二度と聞くことのできないあの笑い声と、もう二度と見ることのできない笑顔を、ぐりっぐりの大きな瞳を、くっきり浮かぶちいさなえくぼを、いっつも弛んでいた可憐な唇を、まっしろで折れちゃいそうな肩を、彼女を。 彼女のことを、ほんとうの気持ちを、僕は知ることも無かった。 僕には何も見えていなかった。

難しいことじゃなかったのだ。 ただ、正面から抱きしめればよかった。 以前、彼女を傷つけた言葉を使って、僕のことと彼女のことを話していけばよかった。それから歩いていけばよかったのだ。 幸せにしてあげたかった。できることなら僕の手で。そうなってほしかった。

雨の降るあの時にひどく似た夜、梅ヶ丘の商店街にはあの日と同じようにぽつりぽつりと明りが灯りだして、隣の八百屋に張り合うように野菜ばっかり並ぶスーパーの前を、肉だけがうんざりするほど並ぶ紀ノ国屋の前を、ひどく薄くピザを焼くレストランの前を、スパイシーなだけのスープカレーを出す洋食屋の前を、ビールやワインを買った酒屋の前を、友達と同じ名前の靴屋の前を、強く、走った。息が詰まるくらいに、声にならないくらいに、涙を流しながら、僕は走った。そうするしかなかった。 梅ヶ丘の町の隅々が、いちいちが、僕に鋭く尖った像を思い出させ、僕はその都度女々しく胸を痛めた。アパートの狭い部屋のドアを閉めても、記憶の断片が洪水のように押し寄せた。僕はドアに鍵を掛け、そのままドアを背にうずくまり、しばらく動くことができなかった。

それくらい抜いた。(ヌいたのです)